安濃津城(あのつじょう)

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関ヶ原の戦いの前哨戦である安濃津城の戦いの舞台となった城

多門櫓跡の石垣に建つ模擬櫓
多門櫓跡の石垣に建つ模擬櫓

三重県の中央部、現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、古くは平安京の外港として栄えた港町であった。中国の明(みん)の兵法書である『武備志(ぶびし)』には、筑前国博多津(はかたのつ)、薩摩国坊津(ぼうのつ)と並んで、伊勢国安濃津が日本三津(さんしん)と呼ばれる良港として記されている。そして「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と謳われるほど栄えた。安濃津城は、北の安濃川、南の岩田川に挟まれた河口に位置し、これらを天然の大外堀とした。戦国時代後期に小さな城砦が築かれたことに始まり、5層の大天守を備える織田一門の居城を経て、江戸時代初期に築城の名手である藤堂高虎(たかとら)が近世城郭に大改修して津藩藤堂家の政庁となっている。江戸期の津城は、直線的な稜線を持つ石垣で固めた方形の本丸を中心に、東西には東之丸・西之丸が連郭式に付属し、それらを内堀、二之丸、外堀が「回」の字形に取り囲んだ輪郭式の平城である。内堀の幅は広く、最も広い南側では100mもあった。大天守台・小天守台は本丸の南西隅にあり、北西隅には戌亥三重櫓、北東隅には丑寅三重櫓が建てられ、これらが天守に代わる津城の象徴であった。南東隅には2層の月見櫓が存在し、本丸の周囲を多門櫓で囲む厳重な備えである。東之丸と西之丸は本丸の角馬出のような機能を持ち、本丸側の東鉄門と西鉄門は枡形虎口を形成して、2層の太鼓櫓(東之丸側)、伊賀櫓(西之丸側)が脇を固めた。西之丸の南西隅には2層の玉櫓と二階門が造られた。二之丸の塁上には12基の平櫓が建ち並び、二之丸への入り口は、北の京口門(大手門)、西の伊賀口門、南の中島口門の3箇所が構えられ、外堀に土橋が架けられているが、いずれも途中に折れのある筋違橋なのが特徴となる。満潮時には外堀に海水が入り、鯔(ぼら)堀とも呼ばれた。しかし、築城工事の途中で大坂の陣が発生、仮想敵国である豊臣家が滅亡してしまったため、防備を強化する必要がなくなった。このため東之丸には建物もなく、石垣も組まない状態で工事が終了した。こうして、高虎によって伊賀上野城(伊賀市)は有事の居城、津城は平時の居城と位置付けられた。現在の城跡は、お城公園として整備されている。本丸、西之丸と内堀の一部以外は市街化しており、津市役所や津地方裁判所、津警察署などが建ち並び、遺構は残っていない。西之丸跡には藩校「有造館(ゆうぞうかん)」の正門である入徳門(にゅうとくもん)が移築現存している。有造館は、二之丸の南東部にあった。昭和33年(1958年)には丑寅三重櫓続多門櫓跡に模擬三重櫓が建設された。安濃津は、平安時代より伊勢国の政治経済の中心地であり、鎌倉時代には藤原南家乙麻呂(おとまろ)流の流れをくむ工藤氏を祖とする長野氏が支配していた。「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)兄弟に殺された工藤祐経(すけつね)の三男・祐長(すけなが)が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸(あんき)の2郡を給わった。その子である工藤祐政(すけまさ)が長野に来住して長野氏を名乗ったのが起源となる。このため長野工藤氏ともいい、伊勢国中部の有力国人として勢力を広げている。南北朝時代に入ると、南朝方の中核である北畠氏が国司として伊勢に進出しており、このため長野氏は北朝方に与して北畠氏と伊勢の覇権を争った。室町時代になっても北畠氏との抗争は続き、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱では、長野氏は西軍の山名宗全(そうぜん)側、北畠氏は東軍の細川勝元(かつもと)側に属してそれぞれが戦った。

戦国時代になっても伊勢には強大な戦国大名は現れず、桑名郡、員弁郡、朝明郡、三重郡に北勢四十八家と呼ばれる小領主たちが割拠しており、鈴鹿郡、河曲郡には関五家と呼ばれる関一党が、奄芸郡、安濃郡には長野氏が、一志郡、飯高郡、飯野郡、多気郡、度会郡には伊勢国司北畠氏が勢力を持ち、遠交近攻の勢力争いを続けていた。やがて、北畠氏に英主といわれる北畠晴具(はるとも)が出現し、志摩国を制圧、大和国、紀伊国にも勢力を拡大しており、天文12年(1543年)伊勢国内でも15代当主である長野藤定(ふじさだ)との戦いが激化、長野軍は細野・分部氏を先陣に七つ備の陣で迎え撃っている。天文16年(1547年)より北畠晴具の猛攻を受け、次第に勢力を失った長野氏は、永禄元年(1558年)次代の北畠具教(とものり)と和睦し、具教の次男である具藤(ともふじ)を養子に迎えて家督を譲らざるを得なかった。形式的には和睦だが、実質的には臣従である。永禄5年(1562年)に長野稙藤(たねふじ)・藤定父子が死去しており、北畠氏に暗殺された可能性が高い。安濃津城の起源はちょうどこの頃で、永禄年間(1558-70年)に長野氏の一族である細野壱岐守藤敦(ふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な城を構えたことに始まる。細野藤敦の父・藤光(ふじみつ)は長野氏14代当主である稙藤の弟で、兄の稙藤の命を受けて一族の細野氏を継いでいる。安濃城(津市安濃町)を居城とした筆頭家老で、長男の藤敦の他に、次男の分部光嘉(わけべみつよし)、三男の川北藤元(かわきたふじもと)がいた。細野藤敦は剛勇をもって知られるが、北畠家より養子に入った長野具藤との仲は良くなかった。永禄11年(1568年)織田信長が伊勢に侵攻したときは、和睦を主張する分部光嘉らの反対を押し切り、居城の安濃城に籠って徹底抗戦した。分部光嘉、川北藤元らは織田家に内応して、長野具藤に細野藤敦が織田家に寝返ったと讒言、具藤は藤敦に異心ありとして討伐に乗り出した。藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して長野一族で協議のうえ織田家に降伏することとなった。そして、信長の弟である織田上野介信包(のぶかね)に長野氏の跡を継がせて、長野一族は織田氏の幕下に入っている。織田信包は養子縁組の解消まで長野信良(のぶよし)を名乗っていた。続く織田家の北畠領への侵攻に向けて、安濃津城には織田掃部助とも称する津田一安(かずやす)が配置された。北畠氏も信長の次男・信雄(のぶかつ)を養子とすることで織田氏と和睦しているが、天正4年(1576年)信雄の手によって田丸城(玉城町)で北畠一族13人とともに長野具藤も殺されており、長野工藤氏の嫡流は滅亡した。一方、細野藤敦は謀反を起こし、織田信包の留守を突いて長野城(津市美里町)を奪回した。これに対して、信長は滝川一益(かずます)の子・八麿を藤敦の養嗣子として和解しているが、天正8年(1580年)信包が細野氏の安濃城を襲うと、藤敦は城に火を放って逃れ、のちに蒲生氏郷(がもううじさと)に仕えたという。元亀元年(1570年)信包は安濃津城の仮城として分部光嘉に上野城(津市河芸町)を築城させ、天正8年(1580年)安濃津城の完成により居城を移した。信包は安濃津城に石垣を普請して、5重の天守も造営したという。天正元年(1573年)の浅井氏滅亡の後には、妹のお市の方や浅井三姉妹(茶々、初、江)を安濃津城で手厚く保護した。また、織田一門の重鎮として信長の長男・信忠(のぶただ)の補佐も務めた。天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、織田信忠、織田信雄に次ぐ一門第三位の地位を確立している。

天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で斃れると、信包は羽柴秀吉に従い15万石を領して「津侍従」と呼ばれた。信長や信包の生母である土田御前(どたごぜん)が、天正18年(1590年)信包に引き取られて、文禄3年(1594年)に病没するまで安濃津城で暮らしていたとも伝えられている。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、信包は北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子の助命嘆願によって秀吉の不興を買い、文禄3年(1594年)には秀吉の機嫌を損ねて改易となった。その後は剃髪して老犬斎と号したが、慶長3年(1598年)に丹波国柏原で3万6千石の大名に復帰している。一方、信包に替わって安濃津城には、文禄4年(1595年)に富田一白(いっぱく)が5万石を与えられて入城している。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発、石田三成(みつなり)ら、西軍の挙兵当初の戦略構想は、まず東軍の拠点である山城伏見城(京都府京都市)を攻略して畿内を制圧し、続いて伊勢と北陸を平定する。同時に美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)と大垣城(岐阜県大垣市)を確保し、美濃と尾張の国境を流れる木曽川を天然の堀として、濃尾国境で東軍と決戦におよぶというものである。尾張清洲城(愛知県清須市)が福島正則(まさのり)の居城であり、東軍の拠点になることを考えると、この構想を実現するうえで伊勢は極めて重要であった。この当時の安濃津城主は富田信高(のぶたか)で、東軍に与していた。このため、伏見城を攻め落とした毛利秀元(ひでもと)、吉川広家(ひろいえ)、長宗我部盛親(もりちか)ら西軍3万の軍勢は、すみやかに伊勢を平定すべく進軍を続けていた。富田氏は、近江国浅井郡の土豪で、信高の父である富田一白は、豊臣秀吉が近江長浜城主になった頃から仕え、外交で手腕を発揮した秀吉の側近中の側近であった。長男の信高も、天正16年(1588年)から秀吉の身辺に仕えており、文禄4年(1595年)富田一白の功により、一白・信高父子は安濃津に合わせて5万石を与えられている。秀吉の死後は三成への反感を強めて、徳川家康に接近して信頼を得るようになっていた。西軍挙兵時、富田信高は家康の上杉征伐に従軍していたが、8月1日に急報に接した家康から上野城主の分部光嘉、松坂城主の古田重勝(しげかつ)らと急ぎ帰国するよう命じられ、その日のうちに手勢3百を率いて下野国小山を発った。西軍の伊勢方面軍は、8月5日に鈴鹿峠を越えて関に着陣、安濃津城攻めに向かっている。一方、富田信高らは東海道を西に急ぎ、三河吉田城(愛知県豊橋市)で池田輝政(てるまさ)から船百艘を借り受けて、伊勢湾横断を決行した。しかし、伊勢湾は西軍の九鬼水軍が押さえており、九鬼嘉隆(よしたか)が率いる水軍に遭遇してしまう。信高ら一行は、武装した軍船に取り囲まれるが、信高が声を張り上げて西軍に味方するために関東から逃れてきたと叫ぶと、九鬼嘉隆は騙されて一行を通過させている。別の史書によると、信高は西軍・東軍のいずれにも与していないので、九鬼殿と進退を共にしたいと告げると、嘉隆は喜んで西軍に属すよう勧めて通したとする。その頃、西軍の伊勢方面軍の先鋒である長束正家(なつかまさいえ)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の部隊が伊勢湾を見渡せる場所まで進軍していた。しかし、長束・安国寺の軍勢は、西軍きっての弱兵で知られており、伊勢湾の海上に信高らの船団を見つけると、東軍の先陣が攻めてきたと勘違いして、大混乱に陥って関まで逃げ戻ったという。こうして、信高が率いる3百の軍勢は、8月10日頃に無事に安濃津城に帰還している。

安濃津城の留守をわずか20騎で預かっていた妹婿の富田主膳は、西軍に実子の人質を出して、表向きは恭順を示して時間を稼いでいた。富田信高は安濃津城で籠城の構えを取るが、この籠城では分部光嘉も全軍と妻子を率いて安濃津城に入城した。分部氏の上野城は1万石でさらに小さく、とうてい防ぎきれないと判断したためである。南隣の古田重勝に援軍を要請すると、鉄砲隊50人を送ってくれた。さらに、帰農したり町人になっていた北畠家旧臣や長野家旧臣が、家人郎党にも武装させて籠城戦に加わってきた。しかし、それでも兵力はわずか1千7百に過ぎず、対する寄せ手は3万の大軍であった。城兵は堀を深くし、北の安濃川と南の岩田川に乱杭を打ち、兵糧を運び込んで籠城に備えている。8月24日に西軍の安濃津城攻めが開始された。北からの砲撃のなか城兵は城外に打って出たが、多勢にはかなわず、西軍の陣所(西来寺)に放火して退却、城下町はたちまち火の海と化した。押し寄せる西軍に外郭、三之丸、二之丸が落とされ、残された本丸に立て籠もった。信高は城門に群がる敵兵相手に打って出たが、多数の兵士に囲まれてしまった。そこに騎馬武者が手槍を持って救援に駆け付け、瞬く間に5、6人を倒した。驚くことに信高の妻であった。『常山紀談』には「容顔美しき武者、紺おどしの物具、中二段黒革にておどしたるを着、槍をさげ来たり」とあり、信高が騎馬武者の正体を知ったのは無事に城門内に入ってからで、信高の妻は毛利家の剛勇の物頭である中川清左衛門を討ち取ったとある。『武功雑記』には「此の北の方は宇喜多安心(あんじん)が息女なりと聞こえし、容儀も世にすぐれ給ひしが、今日の振舞、彼(か)の静(しずか)・巴(ともえ)は昔語りにて見ねば知らず、いま目の前の働きのほど、見る人聞く人驚き合へり」と賞賛している。その武勇は、『武家女鑑』や『日本烈婦伝』などでも喧伝され、広く知られている。信高の妻の父親は、安心入道こと宇喜多忠家(ただいえ)といい、備前国岡山で57万4千石を領する宇喜多中納言秀家(ひでいえ)の叔父であり、幼くして父親を亡くした秀家を後見して本家を支えた人物である。その後、城兵は善戦して西軍の猛攻に持ちこたえた。力攻めの愚を悟った西軍は、25日に高野山の木食応其(もくじきおうご)上人を城内に遣わして開城を勧めている。そして、26日には降伏勧告に応じ、富田信高は一身田の専修寺(津市一身田町)で剃髪し、高野山に蟄居した。この戦いにより、安濃津城は天守とともに焼失している。しかし、9月15日の関ヶ原本戦で東軍が大勝利を収めており、信高は家康から旧領を安堵されたうえ、2万石を加増された。慶長13年(1608年)富田信高は伊予宇和島城(愛媛県宇和島市)に12万石で移された。そして、新たに安濃津に入城したのが大大名の藤堂高虎であり、伊賀一国ならびに伊勢8郡22万石の加増移封であった。元和3年(1617年)には32万3千石に加増されている。慶長16年(1611年)頃から津藩藤堂家の藩庁として津城(安濃津城)の大改修に着手している。本丸が拡張され、石垣の修築や虎口の変更、さらに外郭が構えられるなど、津城を一新した。なお、関ヶ原の籠城戦(安濃津城の戦い)で焼失した5層天守は再建されなかったといわれているが、寛永年間(1624-44年)の絵図には3層天守と2層小天守が描かれており、関ヶ原の戦いの直後に富田信高によって再建されたものと考えられている。しかし、寛文2年(1662年)この天守も火災で焼失し、以後は再建されることなかった。その後も津藩主は藤堂氏が務め、移封することなく11代続いて明治維新に至っている。(2014.09.29)

本丸北西の戌亥三重櫓の櫓台
本丸北西の戌亥三重櫓の櫓台

天守台脇にある避難用の埋門
天守台脇にある避難用の埋門

藩校有造館の正門である入徳門
藩校有造館の正門である入徳門

西之丸の玉櫓と枡形虎口の跡
西之丸の玉櫓と枡形虎口の跡

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