高槻市街地の北方、北摂山地と大阪平野が接する場所に存在した芥川山城は、標高182mの三好山(城山)に築かれた連郭式山城である。北・西・南の山裾を芥川がめぐり、摂津峡の深い渓谷や切り立った断崖など、急峻な地形に守られた天然の要塞であった。東に接する帯仕山(おびしやま)の方が標高192mと高いが、山容がなだらかであるため山城には不向きであった。芥川山城の城域は、東西約500m、南北約400mにおよび、河内飯盛山城(大東市)と並んで大阪府内で最大級の規模を誇る。城内は大きく3つの区画(西曲輪群、中央曲輪群、東曲輪群)に分かれる。最高所となる西曲輪群が芥川山城の主郭部となる。山頂からは大阪平野の雄大な景色が一望でき、飯盛山城の築かれた生駒山地まで見渡せる。芥川山城の山上部には立派な御殿があったとされ、連歌師や公家らが登城した記録が残っている。平成5年(1993年)山頂の主郭(本丸)の発掘調査により、東西6.6m以上、南北3.9m以上の礎石建物跡を検出した。部分的な発掘であったが、床を張った4つ以上の部屋があり、縁側のめぐる本格的な御殿であることが分かった。中世の山城において、山上部には簡易な掘立柱建物しか存在せず、城主の居館などは山麓部にあるのが一般的であるが、芥川山城は山上部に政庁と居住空間が存在する山城であったことが明らかになっている。事実、弘治2年(1556年)正月、芥川山城で火災があり三好義興(よしおき)や松永久秀(ひさひで)の陣所が焼失したため、久秀が醍醐寺(京都府京都市伏見区)の金剛輪院殿御厨子所の建物を移築したと『厳助往年記』に記録されており、主郭の発掘調査では弘治2年(1556年)の火災跡も発見されている。主郭の北西に西曲輪、南西に田ノ丸、南の尾根には二重堀切や大土塁があった。中央曲輪群は出丸を中心とし、出丸の先端部には櫓が構えられていた可能性がある。その西側の谷筋には大手門跡があり、中心部分は崩れているが大型石材による高さ2m以上ある石垣が正面に積まれている。往時は谷筋を塞ぐように長さ12m、高さ3m以上の石垣が一直線に積まれていたと考えられる。中世の城では石垣を用いることは少なく、この大手石垣は登城者に対する視覚効果を狙ったものと思われる。出丸の南には南曲輪があった。東曲輪群にも多くの曲輪があり、中央曲輪群との境は巨大な堀切で分断し、土橋で接続している。その近くには斜面を一直線に下る竪土塁(たてどるい)が存在する。竪土塁は非常に珍しい遺構で、通常の土塁は曲輪の周囲に築かれるが、竪土塁は斜面に沿って縦方向に築かれた土塁で、登り石垣と同様に敵兵が斜面を水平移動できないようにするものであった。城跡には「本丸」「二ノ丸」「追手ヶ谷」「水ノ手」などの地字が残される。高槻市には、平安時代末期より島上郡芥川宿あたりを拠点とした豪族・芥川氏の居館である芥川城(高槻市殿町)が存在したとされる。鎌倉時代になると、芥川氏は鎌倉幕府の御家人へと成長し、南北朝時代の前後には北摂地域の国人一揆の中心勢力となっている。応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱において、芥川氏ら摂津国人衆は東軍に属して戦ったが、西軍の大内政弘(まさひろ)の軍門に降り、芥川氏は没落したようである。現在、宅地化により平地にあった芥川城の遺構は残っておらず、推定地付近に城址碑が存在するのみで、廃城時期も不明である。実は三好山にある山城も史料上は「芥川城」と呼称されており、混同を避けるため山城の方を便宜的に芥川山城として区別する場合が多い。また、平地の芥川城も平時の居館として引き続き利用され、山城と併せて芥川城と呼ぶという説もある。
芥川山城の築城は、永正12年(1515年)に遡る。築城を命じた細川高国(たかくに)は、室町幕府の管領を務める細川京兆家(けいちょうけ)の当主で、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐の守護であった。当時の京兆家は内部分裂しており、永正6年(1509年)から続く両細川の乱で、敵対する細川澄元(すみもと)に対抗するための築城である。築城の様子は『瓦林政頼記』によると、「当国ニ可然城郭無テハ不可叶トテ、国守ハ上郡芥川ノ北ニ当リ、可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘラレケレ、昼夜朝暮五百人・三百人ノ人夫、普請更ニ止時ナシ」とあり、昼夜兼行で300人から500人の人夫が動員される大工事であった。高国は芥川山城の城主として、被官の能勢頼則(のせよりのり)を配置した。『宇津山記』によると、永正13年(1516年)正月に連歌師の紫屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が有馬温泉湯治のため摂津を通過した。その途中の「芥川能勢因幡守(頼則)新城」において「うちなびきいつこかのこる春もなし」という祝いの句を詠んでいるが、この「芥川新城」が芥川山城であると考えられ、史料における芥川山城の初見となる。永正13年(1516年)8月、能勢頼則は没し、嫡子の源左衛門尉頼明(よりあき)が継いでいる。永正17年(1520年)等持院の戦いで高国が勝利、敗れた澄元は阿波に逃れるも病没している。高国は将軍・足利義稙(よしたね)を追放して、足利義晴(よしはる)を12代将軍に擁立するなど、幕政を欲しいままに君臨したが、大永6年(1526年)讒言を信じた高国は重臣の香西元盛(こうざいもともり)を誅殺した。これを知った元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ)と柳本賢治(やなぎもとかたはる)が丹波で挙兵し、同じく丹波国衆の赤井時家(ときいえ)も挙兵した。高国がこの鎮圧に失敗すると、さらに細川澄元の遺児・晴元(はるもと)と家臣の三好元長(もとなが)までが阿波で挙兵している。大永7年(1527年)波多野・柳本勢が高国方の山城山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)を落城させると、能勢国頼(くにより)の守備する芥川山城を開城させて、国頼を退去させている。さらに柳本賢治は、茨木市内の太田・茨木・安威・福井・三宅の諸城までも攻略した。同年の桂川原の戦いで細川晴元方が勝利、享禄4年(1531年)三好元長の活躍による大物崩れ(だいもつくずれ)で細川高国は捕えられ処刑された。細川京兆家をまとめた晴元だが、重臣の元長に脅威を感じて、享禄5年(1532年)10万あるいは20万という一向一揆を使って元長を十文字切腹に追い込んだ。しかし、一向一揆は暴徒化してしまい、大和に侵入して興福寺(奈良県奈良市登大路町)や春日神社(奈良県奈良市春日野町)を襲撃、さらに京都に乱入して法華宗を攻撃するという風説が流れた。天文の錯乱である。本願寺に支援を要請した晴元であったが、一向一揆の暴走に恐怖を感じて、天文元年(1532年)法華一揆などと連合して3万とも4万ともいう軍勢で山科本願寺(京都府京都市山科区)を包囲して焼き払った。本願寺証如(しょうにょ)は石山本願寺(大阪市)に本拠を移し、細川晴元との全面戦争に突入した。天文2年(1533年)一向一揆の攻撃により堺が陥落し、晴元は一旦淡路へ逃れた。摂津に戻った晴元は芥川山城に入城している。そして、12歳に過ぎない三好元長の遺児・千熊丸(せんくままる)の仲介によって本願寺と和睦する。天文3年(1534年)晴元は千熊丸を家臣に加えた。後の三好長慶(ながよし)である。芥川山城は晴元の長期滞在によって、摂津の守護所の役割を果たした。また、洛中・洛外の相論も芥川山城の晴元のもとに持ち込まれた。
天文5年(1536年)晴元は反対勢力を駆逐して京都に移り、将軍・足利義晴を傀儡とした幕政をおこなうが、摂河泉地方で争いが発生するたびに芥川山城に戻り指揮を執っている。天文12年(1543年)細川高国の養子・氏綱(うじつな)が挙兵するも、晴元に属する三好長慶の活躍により反乱は鎮圧された。その後も晴元と氏綱の争いは続き、天文15年(1546年)芥川山城など摂津の諸城が細川氏綱に攻略されると、晴元は丹波に敗走している。しかし、三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎふゆやす)、十河一存(そごうかずまさ)ら三好長慶の実弟たちが四国の軍勢を率いて到着すると、長慶は摂津の諸城を攻略していき、天文16年(1547年)薬師寺元一(やくしじもとかず)の守備する芥川山城を無血開城させて摂津を平定した。かつて芥川が本領の地であったという理由で、接収した芥川山城を芥川孫十郎が受け取っている。この芥川孫十郎は『細川両家記』に「芥孫(芥川孫十郎)は三豊(三好豊前守実休)の妹聟也」とあり、長慶の妹婿でもあった。天文17年(1548年)長慶は対立する三好政長(まさなが)の追討を晴元に願い出たが受け入れられなかったため、ついに父の仇である晴元と袂を分かち、敵対する細川氏綱と結んで反旗を翻した。天文18年(1549年)江口の戦いで長慶は三好政長を討ち取り、敗れた晴元は13代将軍・足利義輝(よしてる)と近江に逃亡した。長慶は氏綱を奉じて入京を果たすが、氏綱は長慶の傀儡に過ぎなかった。天文21年(1552年)長慶は将軍・義輝と和解して、氏綱が京兆家を相続した。ところが、天文22年(1553年)3月、将軍・義輝は細川晴元と手を組み、東山霊山城(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)に入城して長慶との戦端を開いた。同年7月には芥川山城の芥川孫十郎が晴元に呼応して長慶から離反した。しかし、長慶は芥川山城を即座に包囲し、東に接する帯仕山に付城を築いて、芥川孫十郎の籠もる芥川山城を攻撃している。同年8月、義輝が晴元と連合して入京しようとしたため、長慶は芥川山城に抑えの兵を残し、2万5千の軍勢を率いて室町幕府軍が籠城する東山霊山城を攻めた。幕府軍は猛攻に耐え切れず落城、義輝は近江に逃れた。長慶は芥川山城の攻撃を再開、孫十郎は降伏開城し、三好実休を頼って阿波へ逃れた。長慶はあえて京都に入らず、芥川山城に本拠を移して畿内を制圧、戦国時代で初めて足利将軍家を擁立せずに実力で京都を治めた。下剋上による三好政権の成立である。これは室町幕府に代わる中央政権で、織田政権に先立つ統一権力と評価される。攻城に使用した帯仕山付城(高槻市清水台)は、芥川山城の出城として取り込んだ。弘治4年(1558年)美濃の斎藤義龍(よしたつ)が朝廷から治部大輔に補任された。大名への栄典授与は将軍の権限であったが、長慶が将軍の代わりを務めた。また朝廷は正親町天皇の即位のため、元号を永禄に改元した。従来、改元は天皇と将軍が合意の上でおこなわれてきたが、朝廷は近江にいた義輝に知らせず、長慶とのみ協議して改元を実施している。改元を知った義輝は激怒し、弘治の元号を使い続けたという。山城・摂津・丹波などの相論は芥川山城に持ち込まれて長慶が裁いた。天下人と呼ばれた三好長慶の最盛期には、畿内を中心として四国に至る13か国を勢力範囲とした。国名でいうと、山城・摂津・河内・和泉・大和・丹波・淡路・阿波・讃岐・伊予東部・播磨東部・丹後南部・若狭西部である。芥川山城には、松永久秀などの長慶の重臣や奉行人らが常住し、政治拠点として天下に号令している。また、芥川山城は公家をもてなすことができる豪華な造りであった。
三好家中で頭角を現した松永久秀は、島上郡五百住(よすみ)の出身が有力とされ、松永屋敷(高槻市東五百住町)を本拠とする土豪であった。永禄元年(1558年)長慶は義輝と和睦し、義輝の5年ぶりの入洛が実現した。義輝は三好一族や松永久秀を厚遇し、幕府の要職や官位、桐紋の使用、偏諱など、破格の栄典を次々に与えた。しかし、これは長慶をはじめとした三好一族が足利将軍家の臣下として、室町幕府の機構に組み込まれたといえる。義輝が近江にいた5年間は、三好氏が畿内に君臨しており、この期間は義輝に臣従しておらず対等な立場にあったのである。永禄3年(1560年)長慶は家督と芥川山城を息子の義興に譲って河内の飯盛山城に移った。長慶は義輝と一定の距離を置くこととし、芥川山城には義興のために政治拠点の機能を残した。しかし、三好氏の栄華は長く続かなかった。永禄4年(1561年)十河一存が死去、永禄5年(1562年)三好実休が戦死、永禄6年(1563年)三好義興が病没してしまう。城下の霊松寺(高槻市天神町)には22歳で死去した義興の自然石墓(三好のカンカン石)がある。長慶は義興の死で心身に異常をきたし、永禄7年(1564年)安宅冬康を逆心の疑いで自害させるが、激しい後悔に襲われて病状が悪化、43歳の三好長慶は飯盛山城で病死した。長慶や3人の優秀な弟達が長生きしていれば戦国史が大きく変わったといわれるが、三好一族は凋落の道をたどることになる。義興の没後、家督は十河一存の子である三好義継(よしつぐ)が継ぎ、三好氏の一族・重臣である三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の後見で三好家の当主となる。芥川山城は三好三人衆の筆頭・三好長逸(ながやす)が譲り受けたようである。永禄8年(1565年)義継は三好三人衆らとともに、意のままにならず邪魔な存在となった足利義輝を殺害しており、この行為は全国の戦国大名を憤慨させた。その後、三好三人衆と松永久秀が争って三好一族は分裂する。永禄11年(1568年)義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛してきた織田信長の軍勢は、清水寺(京都府京都市東山区清水)や東寺(京都府京都市南区)に陣を置くが、洛中には入らず芥川山城を目標にして摂津に侵攻した。信長は上宮天満宮(高槻市天神町)に本陣を置いて、「芥川之市場」などに火を放ち、織田軍の先陣が芥川山城に攻め込んで三好長逸らを敗走させた。上洛する前に、畿内を統治していた三好政権の中枢である芥川山城を奪取して、支配者が代わった事を明示する必要があったのである。この芥川城の戦いは、信長の上洛戦の一つであり、三好三人衆の掃討作戦でもあった。ちなみに、上宮天満宮の参道は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで、羽柴秀吉が本陣を置いた「天神の馬場」である。義昭と信長は芥川山城に14日間滞在して畿内の要人や武将との対面を果たし、正親町天皇の勅使を迎えて新しい天下支配の枠組みを示して、将軍任官の手続きを進めた。その後、信長たちは念願の上洛を果たしている。三好義継と松永久秀は信長に従臣して、三好三人衆など畿内の反信長勢力と戦っている。芥川山城は、義昭の重臣で摂津三守護のひとりである和田惟政(これまさ)が城主となる。イエズス会宣教師が「都の副王」と称した人物である。永禄12年(1569年)惟政が高槻城(高槻市城内町)に移ると、家臣の高山飛騨守・右近父子が芥川山城を預かっている。しかし、元亀2年(1571年)白井河原の戦いで惟政が討死すると、息子の惟長(これなが)が高槻城主になるが、元亀4年(1573年)高山父子は高槻城を奪取して居城とした。この頃に芥川山城は廃城になったと考えられる。(2024.10.19)