明知城(あけちじょう)

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遠山金四郎を排出する明知遠山氏の居城

明知城の本丸跡
明知城の本丸跡

明知城は、高山城、苗木城、串原城、神篦城、今見城、阿寺城、馬籠城、大井城、鶴居城、瀬戸崎城、阿木城、中津川城、幸田城、妻木城、大羅城、千旦林城、飯羽間城などと同じく、岩村城(恵那市岩村町)の支城として遠山一族が在城した。標高530mの山頂に築かれた明知城は、天険の地形を巧みに利用した平山城で、大小23の保塁が存在した。中世城郭としての保存状態は良好な史跡で、県指定文化財となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えた館五棟があったという。この明知城は、明智光秀(みつひで)生誕の城とも言われ、明智川対岸の千畳敷公園には「光秀産湯の井戸」が存在するが、明確な資料が残されておらず、現在は明智長山城(可児市)で出生したという説の方が有力である。また城址近くの万ヶ洞天神神社には、光秀が山城国の嵯峨天竜寺(京都府京都市右京区)の学僧を招いて学んだ学問所跡がある。千畳敷公園は、明知城の出城であった落合砦の跡であり、天正年間(1573-92年)には遠山一族の串原五郎右衛門経景(つねかげ)が守備したと伝えられる。明知城の北西麓の大手門跡の近くには明知陣屋跡があり、土塁、堀等が残っているほか、土蔵、代官村上氏屋敷、稲荷社等の建物が現存する。江戸時代初期に明知城が廃城となったのちも、この地は中馬街道脇道の宿場町として発展した。

宝治元年(1247年)明知城は、岩村を本拠とした遠山景朝(かげとも)の子である景重(かげしげ)によって築かれた。この景重が明知遠山氏の祖であり、明知城を累代の居城とした。明知遠山氏は代々鎌倉幕府に仕え、室町幕府にも奉公した。大永年間(1521-27年)10代将軍足利義稙(よしたね)の奉公衆であった遠山直景(なおかげ)は士卒を率いて明知城を退去し、室町幕府の申次衆であった伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)を頼って東国に下向したとも、堀越公方となる足利政知(まさとも)と共に伊豆に移って、のちに伊勢盛時の伊豆攻略に従ったとも伝わる。その後の遠山直景は、松田氏、大道寺氏とともに小田原北条氏の三家老として関東を舞台に活躍することになる。明知城には土岐一族の明智光継(みつつぐ)の三男光安(みつやす)が入城し、遠山景行(かげゆき)と名乗って、明知遠山氏の跡を継いだ。この頃、岩村遠山氏を惣領とする遠山一族は東濃地方に盤踞し、岩村城を中心として遠山十八子城と呼ばれる支城群を配置した。中でも有力であった岩村、明照、明知、飯羽間、串原、苗木、安木の当主は遠山七頭とも七遠山と呼ばれ、特に岩村城主遠山景任(かげとう)、明知城主遠山景行、苗木城主遠山友勝(ともかつ)を三人衆と呼んだ。遠山氏は信濃国を制圧した甲斐武田氏と誼を通じていたが、永禄3年(1560年)織田信長が桶狭間の戦いで今川義元(よしもと)を滅ぼし、東濃地方の懐柔をすすめると、信長と結ぶようになる。

元亀元年(1570年)信濃高遠城主の秋山信友(のぶとも)は、3000の兵を率いて東美濃に侵攻した。これに対して岩村城主遠山景任を総大将として、遠山七頭をはじめ、東三河の奥平氏、菅沼氏など、5000の軍勢で秋山氏を迎え撃った。この上村合戦では、西三河の軍勢が総大将の景任と意見が合わず、戦わずに撤退してしまい、秋山氏の猛攻に岩村勢が崩れ、後陣の明知勢が突撃するも遠山景行が討ち取られて退却した。景行の長男景玄(かげはる)は母方を継いで三宅弥平次(のちの明智秀満)を名乗っていたため、次男の利景(としかげ)が還俗して景玄の長男一行(かずゆき)を補佐し、一行が幼くして明知城主となった。元亀3年(1572年)秋山信友が再び来襲し、岩村城を攻略して甲斐武田氏の美濃攻略の拠点とした。これに対して信長は、岩村城周辺に18の城砦を配して対抗したという。天正2年(1574年)武田勝頼は3万の軍勢で東濃に侵攻し、岩村城を包囲する信長方の16城を落として遠山一行、叔父の利景が守る明知城に迫った。急報に接した信長は、織田信忠(のぶただ)、明智光秀(みつひで)など3万の軍勢で鶴岡山に布陣して武田勝頼と対峙するが、武田軍の山県昌景(まさかげ)に退路を脅かされて後退したため明知城は落城する。遠山一行、利景は三河足助城(愛知県豊田市)に逃れ、徳川家康に庇護を求めた。勝頼はさらに飯羽間城(恵那市岩村町飯羽間)を落として甲斐躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)に帰陣した。この時、武田軍の足軽は「信長は 今見あてらや 飯狭間(いいはざま) 城を明知と 告げの串原」と攻略した5つの城名を織り込みつつ信長を嘲った。

天正3年(1575年)長篠の戦いで武田勝頼を破った信長は、織田信忠を総大将とし岩村城をはじめとした武田軍に占拠された諸城を次々に奪回した。この時、明知城も再び織田方の城となり、遠山一行と利景は明知城に帰還した。天正10年(1582年)本能寺の変ののち、羽柴秀吉についた森長可(ながよし)が東美濃を征圧する。圧迫された遠山利景は、天正11年(1583年)再び家康を頼って三河足助城に出奔した。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、森長可が徳川軍に討ち取られると、家康は遠山利景に命じて明知城を攻め落とした。しかし、家康と秀吉の和議が成立すると、明知城は森忠政(ただまさ)に返還することになり、森左近が明知城代となった。慶長5年(1600年)森氏が信濃国海津に移封となると、田丸直昌(なおまさ)が岩村城主となり、原土佐守が明知城代となった。しかし、同年の関ヶ原合戦で田丸氏は西軍に与したため、遠山利景は再び家康の命を受けて明知城を攻め落とし、東美濃を平定した。利景は戦功により6700石を領して明知城を賜り、ようやく旧領を回復することができた。元和元年(1615年)一国一城令により遠山利景の嫡男方景(かたかげ)は徳川幕府の旗本として江戸邸が与えられ、明知城は山麓の大手門近くに陣屋が置かれて廃城となった。天保年間(1830-43年)に江戸町奉行を勤めた「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元(かげもと)は、明知遠山氏の分家筋にあたる。(2006.08.19)

出丸跡に残る石垣
出丸跡に残る石垣

落合砦の光秀産湯の井戸
落合砦の光秀産湯の井戸

遠山氏屋敷跡の「遠山桜」
遠山氏屋敷跡の「遠山桜」

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