明石城(あかしじょう)

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西国の外様大名に睨みをきかす鬼孫こと小笠原忠政の10万石の居城

本丸に現存する坤櫓と巽櫓
本丸に現存する坤櫓と巽櫓

明石城は赤松山台地に築かれた連郭梯郭混合式の平山城で、本丸を中心として、東側に二の丸と東の丸を配し、西側に稲荷曲輪と樹木屋敷、北側に北の丸、南側の平地部に三の丸と居屋敷曲輪を設けていた。明石城の北側には剛ノ池という大きな池があり、これを天然の堀として背後の防御に利用した。他にも桜堀、千石堀、薬研堀が北側を守った。台地上の東西に連なる連郭式の曲輪の規模はそれほど大きくなく、このため南側の台地下に大きな中堀を穿ち、平地部を城域に取り込むことによって、広大な城地を確保している。この台地部と平地部の境界には石垣が高々と築かれ、この高石垣が明石城の特徴となっている。本丸には天守台が築かれたものの、江戸幕府に遠慮して天守自体は建てられなかった。明石城が築かれた元和年間(1615-24年)になると、天守台は築かれても天守は建てないという例が増えてくる。その代わり、本丸の四隅には3層の艮櫓、巽櫓、坤櫓、乾櫓が築かれた。このうち、本丸南西隅に建つ坤櫓が、幕府から拝領した山城伏見城(京都府京都市)からの移築櫓と伝えられ、天守代用とした。また、本丸南東隅に建つ巽櫓が、明石城西方の明石川河口西岸にあった船上城(明石市新明町)からの移築と伝わる。この坤櫓と巽櫓が現存しており、国の重要文化財に指定されている。他にも2層櫓が6基、単層櫓が10基、城門が27棟あった。現在、明石城跡は県立明石公園として整備され、居屋敷曲輪の堀は埋め立てられて野球場のグラウンドになり、その北側の樹木屋敷は陸上競技場になっている。近年、この樹木屋敷が三の丸跡に復元された。明石城が築城される以前、赤松山には月照寺(げっしょうじ)という寺が存在した。この寺は、弘仁2年(811年)弘法大師空海(くうかい)が創建した湖南山楊柳寺(ようりゅうじ)に始まる。仁和3年(887年)楊柳寺の住職であった覚証上人は、夢のお告げに従って、飛鳥時代の歌人である柿本人麻呂が念持仏としていた船乗十一面観世音像を大和国の柿本山広安寺から遷して、寺の背後に柿本人麻呂を祀って人丸社を建て、寺号も月照寺と改めた。人麻呂は平安時代より人丸と表記されることが多い。かつて、人丸社に隠居の身の細川幽斎(ゆうさい)が現れたことがある。神前には多くの人が集まって歌を詠んでおり、その中の一人が幽斎とは知らずに歌を勧めた。細川幽斎は後陽成天皇から「歌道の国師」と言われるほどの歌人でもある。幽斎は辞退したが、一同は納得しなかったので、「ほのぼのと明石の浦の朝霧」と始めた。これは柿本人麻呂の詠んだ歌だったので皆は失望した。しかし構わず「と詠みし翁はこの苔の下」と続けた。あまりの見事さに一同は驚き、この人物が細川幽斎だと分かり感じ入ったという。その後、赤松山に明石城の築城が始まり、人丸社を自由に参拝できなくなった民衆が京都所司代に訴えを起こした。元和8年(1622年)明石藩は京都所司代の板倉重宗(しげむね)の仲介もあって月照寺と人丸社を現在の場所(明石市人丸町)に移した。明石城の本丸には、円形の人丸塚と呼ばれる人丸社跡地が残る。その後、明治4年(1871年)神仏分離令によって人丸社が月照寺と分けられ、柿本神社となった。柿本神社には、一つの花に八つの実がなるという「八房の梅」がある。赤穂四十七士の一人、間瀬久太夫が大石内蔵助と共に参詣して、仇討の成就を祈り、持参の鉢植の梅を手植したのがこの梅である。また、現在の人丸山月照寺にある山門は、明治6年(1873年)の廃城令により明石城の居屋敷曲輪の切手門を移築したものである。この城門は、明石城で使用される以前は伏見城の薬医門だったと伝わる。

元和3年(1617年)姫路城(姫路市)には伊勢桑名城(三重県桑名市)から本多忠政(ただまさ)が15万石で入部し、船上城には大坂の陣の戦功により、信濃松本城(長野県松本市)から小笠原忠政(ただまさ)が、明石・三木・加古・加東の4郡を与えられて10万石で入部した。小笠原忠政は、室町時代に信濃国守護職を務めた小笠原家の出身で、甲斐国の武田信玄(しんげん)と覇権を争った小笠原長時(ながとき)の曾孫にあたる。一方、小笠原忠政の母は松平信康(のぶやす)の長女福姫であるため、忠政は徳川家康の曾孫にもあたり、徳川秀忠(ひでただ)から1字を賜って忠政と名乗ったが、寛永21年(1644年)に忠真(ただざね)と名を変えている。慶長20年(1615年)大坂夏の陣で父の小笠原秀政(ひでまさ)と兄の忠脩(ただなが)が戦死したため、重傷を負いながらも生き延びた次男の忠政が小笠原家の家督と松本藩2代藩主を相続した。同年、徳川家康は山城二条城(京都府京都市)に諸大名を集めて舞楽を興行した際、忠政が出席するまで舞楽を始めなかった。ようやく忠政が現れると、家康はみずから忠政の傷を検視して「是は我が鬼孫にて侍る」と諸将に自慢したという。また、小笠原忠政は姫路城主となった本多忠政の娘婿という関係でもある。江戸幕府は西国街道の要地を押さえる姫路城を重要視しており、もし姫路が落とされた場合は明石で食い止めることを想定し、姫路と明石で西国の外様大名たちに備える構想であった。大坂の陣で勝利したものの、徳川家の勢力はまだ播磨以西には浸透しておらず磐石ではなかった。大坂湾の出入口に当たる明石海峡と西国街道を押さえるため、江戸幕府にとって姫路と明石は戦略上重要な拠点である。しかし、防衛線の一翼を担うはずの小笠原氏の船上城は、元和元年(1615年)の一国一城令により大半の建造物が破却されており、屋敷構といった状態になっていた。このため、元和4年(1618年)2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)は小笠原忠政に対し、譜代大名10万石の居城にふさわしい城郭の築城を命じている。そして、明石城の築城には計画段階から軍略に秀でた本多忠政に関与させた。築城場所の選定にあたっては、小笠原忠政と本多忠政が領内を巡視して、人丸山(赤松山)、和坂(かにがさか)、塩屋の3ヶ所の候補地を検討、人丸山には大きな池があり、城の防備に役立つという理由もあって人丸山に決定している。人丸山は、嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱の激戦地でもあった。赤松満祐(みつすけ)・教康(のりやす)父子の討伐のため、播磨に赴いた室町幕府の大手軍は人丸山に布陣、対する赤松軍は和坂に布陣している。徳川秀忠は普請奉行として都筑為政(ためまさ)、村上吉正(よしまさ)、建部政長(まさなが)らを派遣し、作事奉行には小堀遠州を起用した。また、築城費として銀1千貫目(約31億円)を支給している。こうして明石城は、明石海峡と西国街道を眼下に収める赤松山台地に、一国一城令で取り壊された船上城、枝吉城、三木城、高砂城などの遺材を使用して築城が始まった。明石城には惣構えの考え方が取り入れられ、城の西側を流れる明石川の河口東岸や明石海峡の海岸沿いに土塁を巡らせている。また、真っ直ぐ延びていた西国街道を南側に移し替え、途中4ヶ所で鉤形に曲折させて遠見を遮断するとともに、城下町の東側の京口門と西側の姫路口門に大木戸を設けて内側に番所を設置した。京口門近くには朝顔光明寺、浜光明寺を、姫路口門近くには善楽寺、無量光寺を、さらに海岸からの侵攻に備えて龍谷寺、本立寺、長林寺、本誓寺、岩屋神社を設けて屯所とした。

明石城は元和6年(1620年)に完成した。明石城下の町割り(城下町の設計)や樹木屋敷の造営をおこなったのは、剣豪として有名な宮本武蔵といわれている。宮本武蔵の出生地は美作国など諸説あるが、最近の研究では現在の高砂市米田という説が有力である。武蔵は生涯、特定の大名に仕官することなく、吉岡一門、夢想権之助、巌流島における佐々木小次郎との決闘など、全国を旅しながら兵法を究めたが、出生地である播磨国には多くの足跡を残している。ここ明石においても、宮本武蔵が小笠原忠政に客臣として招かれ、城下町の建設を指導したと『播州明石記録』、『小笠原忠真一代覚書』に記載されている。当時、赤松山の南側一帯は沼地であったが、これを埋め立てて城下町とし、武家屋敷は中堀と外堀の間に明石城を囲むように配置して、町屋は外堀と海岸の間に、西国街道を中心に東本町、西本町、信濃町など10町に分けた。このように武蔵の立案によって、籠城戦にも配慮した町割りを行っている。一方の樹木屋敷とは城主の遊興所で、散策・休憩・客のもてなしのためにつくられた建物と庭園の総称で、山里郭(やまざとくるわ)とも呼ばれた。主な施設として、御茶屋(休憩所)、蹴鞠をする場所である鞠の懸り(まりのかかり)、築山(つきやま)、泉水、滝などがあったことや、これらが小笠原忠政の命を受けた宮本武蔵によって造られたことが、小笠原家に伝わる『清流話(せいりゅうわ)』に記録されている。武蔵は他にも、本松寺(明石市上ノ丸)や善楽寺円珠院(明石市大観町)、福聚院(神戸市西区櫨谷町)などの庭園の作庭を行ったといわれる。寛永3年(1626年)宮本武蔵の養子である宮本伊織貞次(さだつぐ)は、武蔵の推挙により15歳で明石藩小笠原家に御近習として仕官し、弱冠20歳で家老職となり知行2000石を与えられる。この縁で武蔵も明石藩によく出入りした。小笠原忠政が豊前国小倉へ転封した後、寛永15年(1638年)宮本伊織は島原の乱において侍大将と惣軍奉行を兼任し、この戦功によって小笠原家中の譜代・一門衆を追い越して4千石の筆頭家老になった。宮本伊織に関する逸話として、伊織は接待や宴席で豆腐料理を出されることを非常に喜んだという。この噂は藩内だけでなく近隣諸国にも広まっていた。そのため、伊織が出席する宴席では豆腐料理が多かった。しかし実際には、政務を執るものが贅沢好きでは示しがつかないため、「伊織は豆腐好き」ということにしていたのである。これにより、周囲に余計な気遣いをさせなくて済んだという。寛永8年(1631年)明石城は大火によって全焼してしまう。その後、すぐに再建工事が始まったが、寛永9年(1632年)工事が終わらないうちに、小笠原忠政は豊前国小倉藩に転封となった。その後、寛永10年(1633年)信濃国松本藩より戸田松平庸直(やすなお)が7万石で明石城に入城するが、翌年に死去したため、甥の光重(みつしげ)が跡を継いだ。寛永16年(1639年)松平光重が美濃国加納藩に転封すると、同地より交代で大久保忠職(ただもと)が7万石で入部する。慶安2年(1649年)忠職が肥前国唐津藩に8万3千石で転封すると、丹波国篠山藩より藤井松平忠国(ただくに)が7万石で入部、万治2年(1659年)忠国の死去により次男の信之(のぶゆき)が遺領の6万5千石を継いだ。松平信之は名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして新田開発に力を注いだ。また荻生徂徠(おぎゅうそらい)の門人で儒学者の片山兼山(けんざん)に命じて明石城内十景を選び、この時に喜春城(きしゅんじょう)の雅名が生まれている。

延宝7年(1679年)松平信之は大和国郡山藩に転封となり、同地より交代で本多政利(まさとし)が6万石で入部する。政利の明石入部にはいろいろな経緯があった。寛永15年(1638年)本多忠勝(ただかつ)の孫で姫路藩主の本多政朝(まさとも)が死去、このとき政朝の長男である政長(まさなが)はまだ6歳であった。本多家には、幼君に家督を継がせてはならぬという家訓があり、政長が成長するまでという遺言によって、家督は従兄弟の本多政勝(まさかつ)に譲られた。この政勝が本多政利の父である。翌年には松平忠明(ただあきら)と入れ替わりで、大和国郡山藩に15万石で入部している。そして政勝は、家督を政長ではなく実子の政利に相続をさせようと画策し始め、江戸幕府大老の酒井忠清(ただきよ)に取り入るが、本多家の家臣である都築惣左衛門の忠言によって政長が養嗣子と定められた。その後、寛文11年(1671年)本多政勝が死去すると、本多政利は再び酒井忠清に接触しており、政勝の遺領15万石のうち9万石を政長に、6万石を政利に相続させる幕府の裁定が下った。これを九・六騒動という。この騒動はこれでは終わらず、15万石全てを相続できなかったことに不満を抱いた政利は、延宝7年(1679年)政長を毒殺してしまった。結局、政長の跡継ぎとなった本多忠国(ただくに)が家督を相続して、陸奥国福島藩に15万石で転封となり、政利は明石藩への転封を命じられたのである。天和2年(1682年)政利は苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石の減知転封となった。さらに、元禄6年(1693年)不行状により改易、宝永4年(1707年)三河国岡崎藩の幽閉先で獄死した。このように、わずか50年の間で明石城主は目まぐるしく入れ替わったが、天和2年(1682年)越前国大野藩から越前松平直明(なおあきら)が6万石で入部し、越前松平氏が廃藩置県まで10代続いた。元文4年(1739年)2代藩主直常(なおつね)のとき、老朽化した明石城の大修築をおこなっている。8代藩主斉宜(なりこと)は11代将軍の徳川家斉(いえなり)の二十五男で、このとき2万石の加増を受けて8万石となり格式は10万石格となった。同時代の肥前国平戸藩の9代藩主である松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによると、松平斉宜が参勤交代で尾張藩領を通過中、3歳の幼児が大名行列の前方を横切ってしまった。斉宜の家臣たちは供先切りの無礼により、この幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行、村民たちが斉宜の許へ押し寄せて助命を乞うたが斉宜は許さず、切捨御免にて幼児を殺害してしまった。この処置に尾張藩は激怒し、徳川御三家筆頭の面子にかけて明石藩の大名行列が領内を通行することを禁じた。このため明石藩が尾張領内を通行する際は、行列を立てず、藩士たちは脇差し一本を帯びて農民や町人に変装したという。さらに地元には、弘化元年(1844年)幼児の父親である猟師の源内が、木曽路で斉宜の駕籠を狙撃し、射殺したとの伝承も残っている。明石藩の無礼討ちの話は、愛知県尾西市の「孝子佐吾平遭難遺跡」や、静岡県三島市の「言成地蔵尊」の伝承もあり、これらには明石藩主の無礼討ち、尾張藩から明石藩への報復、父親の仇討ちという共通点があり、何らかの事件が起こったものと考えられる。幕末の明石藩は、親藩であるため佐幕派となり、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに幕府方として参戦するが戦闘には間に合わず、明石城に新政府軍の山陽鎮撫使が進軍したため、松平春嶽(しゅんがく)の取り成しによって新政府軍に恭順した。明治4年(1871年)廃藩置県により明石県となり、姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入される。(2008.11.22)

本丸の西側に鎮座する天守台
本丸の西側に鎮座する天守台

京都の伏見城から移築した坤櫓
京都の伏見城から移築した坤櫓

現存する居屋敷曲輪の切手門
現存する居屋敷曲輪の切手門

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